「織田信長の生き様を人生に活かす」第21回松南志塾_綜學勉強会を開催しました!
2023/03/30
本学勉強
こんにちは、松南志塾の豊嶋です!
松南志塾のOB・OGである豊嶋(インターン7期)と松葉(インターン11期)で、「綜學勉強会」を学生や20代の方向けに、月に1回のペースで開催しております。
この勉強会の開催の背景・目的として、現在私と松葉が綜學院(東京・京都)で月に1回林英臣先生のもとで、松南志塾の原点でもある「綜學」を自主的に学んでいるのですが、そこでの学びや、自分たちが得た気づき等を、学生や20代の若い世代の方々に対して自分のことばでお伝えし、一緒に未来や社会を良くするために切磋琢磨し合いたい!!という思いからです。
そして2023年3月25日(土)に第21回目を開催しました。
今回は主催者含め4名で開催いたしました!!
ご参加下さった方のは、志士かまくらにもご参加頂いている南方さん、森口さんでした!
ご参加いただき有難うございました!!
さて、今回のテーマは「織田信長」です。
今後の新しい日本を創っていく上でも、織田信長の生き様に大いに学ぶ点があります。
織田信長は、戦国乱世・群雄割拠の時代、「旧体制」を終わらせて、新しい「近世」の時代を切り開いた偉人です。
その織田信長の人生、そしてあまり知られていない「織田信長の思想・人物像」も学んでいきました。
①織田信長とは?学ぶ意義
②織田信長の人生
③織田信長の功績
④織田信長の思想・人物像
という構成で学んでいきました。
もくじ
織田信長とは?学ぶ意義
まず始めに織田信長について概要をお話しました。
織田信長とは、「下克上」と「群雄割拠」の戦国乱世にあって、中世を終わらせ近世の扉を開いた、
また旧弊と既得権益の打破した人物になります。
当時の日本は、群雄割拠の戦国時代。そんな中「天下布武」を掲げて立ち上がったのが織田信長です。
文明法則史学の観点では、現在の日本はSS(ソーシャルシステム)がない過渡期の不安定な状況です。織田信長が生きた時代も、1467年の応仁の乱を境に、中世SSが終わりを迎え、次の近世SSまでの過渡期の頃でした。
現在と同じような過渡期・不安定な時期を生きた織田信長が、どのように行動し、どのように生きたかについて、学ぶべき点は多いにあると思います。
織田信長の人生
その次に、具体的な織田信長の人生・功績について学んでいきました。
1534(1歳)
・ 尾張に誕生。
1551(18歳)
・ 織田家は、管領(室町幕府の将軍につぐ役職)である斯波氏(しばし)の守護代(領土の支配人)だった。
・ 分家の1つが信長の家族。父の時代に尾張の半分を平定した。
<弟を殺害>
・ 織田家は内紛だらけであり、信長の弟を殺さなければいけなかった。(弟を応援する勢力が尾張で大きくなっていたので)この事実だけだと信長は冷淡なイメージになってしまうが、別に弟を殺したいわけではなく、「全国統一を目指していた」ので、先ずは尾張を統一しなければならないという(殺害もやむを得ない)状況であった。
<時代背景を踏まえて信長を見ることが大切>
・ 一般的には信長は非情・冷酷・残虐な人間と思われがちであるが、当時の戦国乱世は信長に限らず、食うか食われるかの時代なので、仕方ない。みんな残虐であったので。そのような時代背景を踏まえて、信長の人物・実績を再評価していかないといけない。
(歴史・偉人を学ぶ上でのポイントは、「時代背景を掴んでいること」です)
<信長の人生における原点>
・ 信長の原点として、内紛がいかにつらいか。領民にとって負担であり悲しいことかを実感していた。なので、『領民のためにも安定した世の中を作る』ということを、18歳頃までに考えていた。その後、8年間をかけて尾張を統一していった。
1559(26歳)
<尾張統一まで8年要する>
・ 尾張統一。とんとん拍子で、全国統一していったイメージがあるが、尾張統一までに8年間を要している点を見落としてはいけない。「何事も、何かを成していくには時間を要するもの」という教訓を、信長の人生から得ることができる。
1560(27歳)
<桶狭間の戦い。インテリジェンスの重要性>
・ 桶狭間の闘い。今川義元の進軍があり、全国統一を目指して京都を目指す。
・ 織田軍は3-5千人で、今川軍は2万5千人。信長の凄い点は、情報戦をしっかり張り巡らせていたこと。梁田正綱(やなだまさつな)に、今川義元軍がどのルートを通ってくるのか、また今川義元本体の場所を掴ませた。
・ 今川軍が細い街道をアリの行列のように進んでくるので、その中で本体を掴み、そして核心をつくことが、少ない軍数で相手を倒す起死回生の手段であった。桶狭間の戦いから分かる通り、単なる情報ではなく、使える情報(=インテリジェンス)が今も昔も勝敗を決する。このインテリジェンスを掴み、一点突破で攻撃を仕掛けた。
※最前線の「力」ではなく、「インテリジェンス」が重要であることを学ぶことができる。
<そして全国に名が轟く>
・ この桶狭間の闘いまでは、やっと尾張を統一できた小大名の扱いなので、世間からは注目されていなかった。(今川義元に吸収されると思われていた)しかし、桶狭間で見事に今川義元を破ったことで、信長の名声は全国に轟くことになった。
1562(29歳)
<同盟を結び備える>
・ 松平元康(後の徳川家康)と同盟。都(西)に向かうに際し、東側にいる家康と同盟を結んだ、西に向かう際に、東に対する備えをすることは重要。
1567(34歳)
<目的に合わせて場所・手段を変える!>
・ 岐阜城に入る。
・ 信長は、5つ城を変えている。つまり、どこが1番天下統一に適しているかを把握し適切な場所に拠点を構える手法を取った。
➾中世の戦のスタイルとして、自分の領地に館があり、そこを守り、そして『いざ鎌倉』となれば、戦の場所に集まっていた。
<兵農分離を実施。時間を味方につけるか>
・ 従来、農繁期は戦いが中断になっていたが、そのような悠長なことをしていては天下が取れない。その点、信長は違っていた。兵農分離を実施するようになり、いつでも戦ができるような(時間を味方につけるような)仕組みを作った。
1568(35歳)
<信長という人物の大きさ。地位名誉は不要>
・ 上洛。足利将軍のブランド力を利用。将軍職につく義昭を助ける名目で都に入った。信長の凄い所は、『信長のおかげで将軍になれたので、副将軍の地位を授けよう』と述べたが、断ったところ。
・ 地位名誉には興味がない。天下統一(天下布武)を志していた。この辺が信長の大きさである。一方、上杉謙信は関東管領の役職を貰い、喜んでいた。その辺が信長との違い(ビジョン・視野の広さ。大義の有無)である。
1570(37歳)
<宗教の政治介入を否定>
・ 石山戦争開始。(本願寺、つまり浄土真宗との闘い)南無阿弥陀仏を唱えると救われるという浄土真宗が全国に広がっており、それが政治に介入していた。諸大名にとって面倒なのは、自分の部下も領民も信者になっており、上司である自分の命令を聞かなくなっていたこと。
・ 大事な点として、信長は宗教それ自体を否定しているのではなく、「宗教団体の政治への介入」を否定したこと。
(そこは誤解してはいけない)
1571(38歳)
<比叡山延暦寺の焼き討ち/反対勢力を排除>
・ 比叡山延暦寺を焼き討ち。延暦寺(天台宗)は、全国に末寺があるので、お金が沢山入ってきて、また情報源にもなっていた。さらに、軍事勢力でもあり、多数の僧兵を抱えていた。反信長勢力の拠点になっていたので、焼き討ちをした。誤解をしてはいけないのは、本坊、根本中堂は焼いていないということ。信長は、なんとなく「鬼のようなイメージ」があるが、そうではないことは押さえておきたい。
1573(40歳)
<志レベルが合わない人とは合わない>
・ 足利義昭を追放。今まで一緒に行動してきた、『使えるだけ使って追放した』と思う人もいるかもしれないが、信長と志が違うので追放した。将軍の足利義昭は、将軍家の維持、つまり自分の地位を安定させることに主眼を置いていたが、信長は天下統一を目指していた。このような信長の生き様から、「根源的に志が違うと、仲たがいになることは仕方ない」という教訓を得ることができる。
1575(42歳)
<鉄砲(技術)は既にあった。既にある技術の課題を創意工夫で克服したのが信長の凄い所>
・ 長篠の戦で鉄砲を本格使用。この頃の鉄砲は先込め式なので、一度銃を撃つと冷えるまでまたないといけない。よって連射ができない。信長は、鉄砲隊を三千集めて、順繰り、もしくは立ったり座ったりさせながら連射させた。このように新技術の欠点を克服したのが信長の功績。
・ つまり、鉄砲(という技術)は既にあったが、それが戦場において極めて有効かつ、勝敗を決するものにするためには不十分だった。そこから工夫して使いこなしたのが信長の功績。
1576(43歳)
<東洋思想に対する誇り。3国を統合する東洋のシンボルタワー。綜合的な思想を持つ>
・ 安土城(地下1階、地上6階)の建築。天守閣は『金閣』➾中国の伝説上の偉人、孔子と10大弟子(中国思想の間)、5階➾『夢殿』は釈迦と10大弟子が描かれていた。(インド思想の間)。
1582(49歳)
・ 天目山の戦いで武田頼勝を滅ぼすも、本能寺の変で明智光秀に殺されて生涯を終えた。
織田信長の功績
織田信長の人生を見てきましたが、その中でも功績、または知恵・工夫・イノベーションと呼べるべきものがあります。
勉強会では、①兵農分離、②方面軍制度の創設、③巨大鉄船の建造、④楽市楽座、関所撤廃の、4つを紹介しましたが、ここでは2つだけ簡単に記載いたします。
<兵農分離>
まずは、兵農分離です。中世までのサムライは、自分の領地に住み、同時に農業もやっていたので農繁期は戦ができない状況でした。そこで、いつでも戦える集団を作るべく兵農分離を実施しました。天下布武(統一)まで、ダラダラせずに時間を味方につけたのは、大きな工夫と言えるかと思います。
有限な時間、命。最大限に時間・命を活かし切る上でも、効果的な方法を常に見出し、工夫し続けるが大事だと思います。
<楽市楽座、関所撤廃>
既得権益を持った商人が商売を独占していたので、規制を撤廃し、誰でも経済活動に参画できるようにしました。
このような「既得権益の打破」は、反対(既得権益)勢力からの圧力も多くあったことと思いますが、閉塞感漂う社会を打破し、新しい時代を切り開く上では、誰かがやらなければなりません。先陣を切って、自分の身を投げ打って、世の為・人のために断行する生き様には、大いに学ぶべき点があると思います。
織田信長の思想・人物像
織田信長の人生を見てきたうえで、そこから紡がれる信長の思想・人物像に迫っていきました。
信長に対して、「残虐なイメージ」があるかもしれませんが、時代背景を踏まえても戦国乱世の当時は、「生きるか死ぬか」であり、信長に限ったものではありません。それ以上に、信長は「優れた思想」をもっていました。
前述のとおりですが、織田信長は、43歳の頃に、安土城(地下1階、地上6階)を建築しました。天守閣は『金閣』➾中国の伝説上の偉人、孔子と10大弟子(中国思想の間)、5階➾『夢殿』は釈迦と10大弟子が描かれていました。(インド思想の間)。
また信長の父(信秀)が、天皇を敬い、その影響で信長も「尊皇心」を持っていたようです。禁裏(皇居)の造営も支援し、また伊勢の式年遷宮を復活させるための援助をしています。
このように信長は、日本思想(神道)・中国思想(儒教)・インド思想(仏教)という、3国の東洋思想に尊厳を持っていて、天下布武の後に、東洋の尊厳を世界・西洋に見せていこうという思いがあったのではないかと推測されます。それによりアジアへの西洋の勢い・侵略を防ごうと考えたのではないか。
この辺に、信長という人物の「思想性の高さ」、「人物としての器の大きさ」、「ビジョンの広さ」がうかがえます。
ただ単に武力・インテリジェンスに優れた武将というわけではない点は、非常に重要なポイントかと思います。
このような形で織田信長について学んでいきました。参加者も、非常に学びが多かったようです。1時間で講義をした後に、
❶34歳、美濃を平定。岐阜城に入り、「天下布武」を掲げる。あなたが示す目標を一言でいうと?
❷「兵農分離」で、いつでも戦える戦闘手段を組織し時間を味方に付けた。あなたの目標達成を遅らせている原因は何ですか?それを取り除くために、どういう工夫が必要ですか?
というテーマでシェアをしました。
この「綜學勉強会」の特徴として、この綜學が「実学」、「人間学」、「帝王学」であるという点です。どう活かすのか。自分を変えていくのか。成長につなげていくのか。
気づき、学んだ上で、それを日々どう生かして(気づきを自分に置き換えて)いくのかがとても重要です。気づきを置き換えていくのは中々難しく、学んだ感想をシェアするだけになることもありますが、みんなで取り組んでいます!
次回は、動乱の明治時代に日本の指針を描き実行した、日本の歴史上トップクラスの外交官である「小村寿太郎」について学んでいきます。こちらも大切な学びとなりますので、ぜひお気軽にご参加ください。
綜學は生きていく上で、自分の軸となる大切な学びだと思いますので、学生(高校生・大学生)や、20代の方はご自由にご参加下さい。また、周りの方で興味関心がありそうな方がいらっしゃいましたら、ぜひお声がけ頂けますと幸いです。
我々もまだまだ勉強の途中で未熟者ですので、引き続き真摯に綜學を学び、自分の人間力を磨きながら、少しでも自分の言葉で人に伝えられるように精進して参りますので、どうぞよろしくお願いいたします!